映画「NOPE/ノープ」

【アレは、メディアに対する私たちの態度の象徴?】

映画撮影用の馬の調教・牧場経営をしているヘイウッド兄妹。父親を飛行機からの落下物という「最悪の軌跡」で亡くした後、経営状態が悪化し、馬もテーマパークに売り払ったりしてきた。そんな中、彼らの牧場では、突然機器が不安定になったり、正体不明の飛行物をみかけたり、奇妙な現象が起き始める。父の死にも疑問を持っている兄妹は、謎の飛行物体を撮影して起死回生を図ろうとするが…という物語。

予告編を見る限り、空に「何か」が飛んでいるという映画であろうことは想像できます。その「何か」について伏せたままで感想を書くのはなかなか難しいですね。謎の飛行物体に対して、「退治しよう」でも「逃げよう」でもなく、「撮影してバズらせよう」というのが、いかにも現代的です。そして、映画もまた「撮影して見せる」ものですので、かなりメタ的な視点で作られているという印象でした。

ジョーダン・ピール作品は、前情報なしで「ゲット・アウト」を試写で観て、「アス」は公開時に劇場で観ました。どちらも、中盤まである大きな事実が劇中の主人公にも観客にも伏せられたまま、その奇妙な状況に違和感や恐怖感を覚え、事態が進むうちに事実が明らかになり、その事態からの脱出を図るという共通点がありました。また、人種差別や格差といった社会的な問題を、その奇妙な設定に織り込むという寓話性の高さも共通です。

本作でも、前者は引き継いでいますが、後者の寓話性については、より観念的というか、これまでの「分かりやすさ」は見られませんでした。前半は、冒頭の凄惨な事件から嫌な空気の中で「何が起こっているのか」とゾワゾワしますし、後半のドライブがかかる感じもめちゃめちゃ引き込まれていくのですが、見た後で、どうにも消化不良というか、「結局アレはどういう関係があったの?」という気持ちになることは確実です。

冒頭で流れて、その後もちょいちょい挿まれるゴーディの話。予告編にはなかったので、最初は「あれ? こんな話なの?」と疑問に思いました。これが、前半のホラー展開を底上げする役目を果たしています。このエピソードが、本編とどう絡んでくるのか、そこに期待しながら、観ていくことになります。

それをつなげるのが、テーマパークを営むジュープの存在です。

ジュープは、あんな目にあったのに、まだ観客に見られることを仕事にしています。そして、「何か」のことに気づいて、それをショーの中で見世物にしようとします。冒頭の旧約聖書からの引用にもありましたが「見世物」というのも、キーワードのひとつですね。

「見る・見られる・見せる・見ない」という関係が、複雑に絡みあってきます。ゴーディをやっていたチンパンジーは、きっと見られることが本当は嫌だったんでしょうね。だから、相手の顔を徹底的に潰しに行くし、目が合わなければ襲わない。

馬の調教をしているOJは、馬が目を合わせられることを嫌うことを知っています。でも、馬をコントロールすることまではできていなくて、馬にあわせるだけです。そもそも人は動物をコントロールできているつもりでいるけど、実際は、動物にあわせてもらっているだけなのかもしれません。それが破綻したのが、ゴーディの事件であると。

「見る」ということは、攻撃的というか、そのことで相手を支配するといった意味合いが含まれているのでしょう。その一方で、人はエンターテインメントという、見せてなんぼ、見られてなんぼの世界を作っています。もちろん、映画もその1つです。その中で、本来いたはずなのに、無視されてきた人たちのことについても、触れられています。

本作の中には、いろいろなカメラが出てきます。「見る」行為を拡張する機械です。そして、現在は、エンターテインメントの世界の人だけでなく、一般の人々も、日々監視カメラで見られ、自分が撮った動画をネットに上げて世界中に見せています。私たちは、どうも、「見る、見られる、見せる」ということに、麻痺しているのかもしれません。そこを問い直すということを、この映画の中で表現したかったのかな、というのが、私が捻り出した解釈です。

そう考えていくと、あの空の「何か」は、普段は姿を見せないけれど、いざ獲物を見つけるとしゃぶりつくして、味がしなくなるとペッと捨ててしまう、メディアに対する私たちの態度そのもののようにも思えてきました。

…と、いろいろと考えるとワケが分からなくなるぐらい、いろいろな意図が含まれているのだと思いますが、この映画のすごいところは、そんなことを考えなければ、SFスリラー&スペクタクルとして、うひゃうひゃ言いながら楽しめるというところです。