映画「アルプススタンドのはしの方」

 【失敗や挫折は「しょうがない」と飲み込むより、「悔しい!」と吐き出そう!】

甲子園の1回戦、演劇部の女子生徒安田と田宮の2人、元野球部の藤野、そして、成績優秀の帰宅部宮下は、熱心に応援する生徒や家族たちからは離れて、アルプススタンドのはしの方で、母校の試合を眺めている…という話。

2017年の全国高等学校演劇大会において最優秀賞を受賞した兵庫県立東播磨高等学校の戯曲を映画化したもの。この戯曲は、高校演劇の名作として、全国の高校の演劇部で上演されているそうで、うちの子どもの高校の文化祭でも演劇部が上演していました。 

まもなく、漫画版も出るようです。


私自身は舞台は見ていませんが、上映時間が75分(高校演劇の上演時間は60分)、甲子園が舞台だけど試合の風景は一切映らないなど、演劇の要素を色濃く残している作品なのだと思われます。

もともとは4人だけの芝居らしいので、上映時間が伸びているのは、登場人物が増えている分ということでしょう。

野球部を辞めた藤野は、もちろんワケありですが、やたらと安田に気を遣う田宮もどうもぎこちない。冒頭で、舞台の準備をするワンボックスの前でうなだれる安田の姿が映るので、演劇部で何かあったらしい。野球の応援に来るタイプじゃない宮下は、さらに距離を置いて、1人ポツンと立っている。それぞれに、心の底に何かひっかかるものを持っているんですね。共通するのは、何かを諦めた、あるいは諦めかけている子たちということ(その対極として、野球部の矢野がいます。登場はしませんが)。キーワードは「しょうがない」です。

この4人の会話を中心に話が進んでいきます。まずは、これが楽しい。とても、演劇的で、笑わせてくれます。もともとは関西弁のはずなので、言葉はもちろん、間のとり方など、結構、変えているのだろうと推測されます。

さらに、笑いを上乗せしてくるのが、熱血応援を押しつけてくる茶道部顧問の厚木先生。何でも野球の話に例えるオヤジは鬱陶しいものですが、「大切なのは、打席に立つこと」「人生は送りバント」と、先生が伝えたかったことに、生徒たちが試合中に全然別のところからたどりついてしまうところが面白いですね。先生本人にも思うところがあって、ただのウザいキャラクター、笑いのスパイスだけで終わらせないところが、いいです。

そして、吹奏楽部の部長の久住。何度かブラスバンドが映ると「あれ? 1人可愛い子がいるぞ」と目が留まってしまう女子生徒。その子が、後のシーンでセリフをしゃべり始めるのだから、「さすが、真ん中にいる子は違う」です。真ん中は真ん中で大変なのは、「ルース・エドガー」で痛いほど語られていましたが、彼女は、つらいことは「つらい」と言えているので、大丈夫でしょう。宮下とはライバル関係ですが、結果的にエールの交換のようになって「お前ら、青春だな」という感じです。

こうやって見ていくと、登場人物はもちろん、登場しない園田や矢野、なんなら相手校の松永まで、暗い気持ちでこの作品を終える人が誰もいないということに気づきます。ラストには、みんながみんないい感じになって、ここまで清々しくハッピーエンディングというのも、珍しいのではないでしょうか。 

グラウンドの真ん中は眩しく見えるかもしれないけれど、優勝校を除けば選手はみんな悔しい思いをして、グラウンドを去っていきます。今、自分が立っている場所は、他者からみれば端っこに見えるかもしれないけれど、自分にとってはそここそが真ん中なのです。自分ぐらいは、その真ん中を大切にしたいものです。

今年は、新型コロナウィルス感染拡大の影響で、春・夏の甲子園大会がなくなってしまいました。真ん中にいるはずの球児たちも、甲子園のグラウンドに立つことができません。そして、はしの方の生徒たちも、アルプススタンドのはしの方に立つことさえできません。全国的に「しょうがない」が蔓延しています。確かに「しょうがない」ことです。でも、「しょうがない」と言っている人に対しては、慰めの言葉はかけられても、応援のエールを送ることはできません。「悔しい」と、堂々と叫んでくれれば、応援したくなります。

そういう意味で、もともとは意図していなかったでしょうが、特別な意味を持つ映画になったことは確かです。

細かいところですが、気になったのは、タッチアップを知らない女子高生が、「ストライクゾーン」「歩かせる」という表現は使うかな?というところ。「真ん中」とか「わざと、えっとなんだっけ? フォアボール? そう、わざとフォアボールにしてもいいんでしょ」とか、そんな表現になるんじゃないでしょうか。最初に藤野くんの説明の中にさらっと織り込んであって、そのうえで宮下さんが使っているのなら「さすが成績優秀、飲み込みが早い!」となるのですが。

さらに、どうしても残念なのは、観客席が甲子園には見えないということ。演劇であれば、舞台上にベンチがあれば、いや、階段状の段差があるだけでも、そこが甲子園であることを想像することは可能ですが、映画で地方の市民球場の観客席を見せられると、それはもう、県大会にしか見えません。アルプススタンドのはしの方なら、かなり高い位置のはずなのですが、それが感じられない。後ろに看板でもあれば違ったのかな? 舞台を地区大会の決勝にしても成立する物語ですが、それだと「アルプススタンド」じゃなくなっちゃいます。もちろん、予算という大きな事情があるのだから、しょうがいないことだとは分かりますが、この映画を作るのに「しょうがない」って、思わせていいのか? ということです。