映画「ハウス・ジャック・ビルト」

ラース・フォン・トリアー監督といえば、私にとっては「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で、今のところ生涯最も後味の悪い映画を見せてくれた、トラウマ監督です。

今回は、連続殺人鬼による5つのエピソードとエピローグで構成されています。建築家に憧れるサイコパスによる連続殺人ということで、最初は、サスペンスを土台としながら、それゆえに笑えるコメディーなんだと思って見てました。

実際、1つめ2つめのエピソードはそんな雰囲気でした。1つめは、うかつな高飛車女の偏見が思わぬスイッチを入れてしまって、その妄想が実現してしまうという、「お前も悪いよな」系の話。2つめは、殺害に至る前の経緯、その後の始末、どちらも完全にコントでした。強迫性障害のくだりは、もうしつこいぐらいに天丼を被せてきます。

しかし、3つめのエピソードに至ると、一気に雰囲気が変わります。「え? この人物たちで話が進むということは、そういうことなの…?」という最悪の予感を抱きつつ、展開を見守ることになります。 

本作は、R18指定ですが、性的描写も残虐描写も、そこまで度を超したものではありません(そこそこえげつないものなので、ダメな人は、やはり注意が必要)。むしろ、問題にされたのは、人道的・倫理的に抵抗感、嫌悪感を感じる、このエピソードの描写なのだろうというのが、私の推測です。

この明確に「酷い」 このエピソードを経て、彼が連続殺人鬼ではあるものの、殺人そのものに快楽を感じているわけではなさそうだということが分かってきます。むしろ、殺人は彼の目的ではないのだと。

途中、ジャックの言動は、明らかにラース・フォン・トリアー自身を投影したものになっています。それは、監督からの「映画って、どういうものなのよ?」という問題提起のようにも思えます。「そりゃあ、ダメなものはダメでしょうよ。でも、ダメなことをするのも人間ですよ。それを覆い隠して何が描けるのよ?」という声が聴こえてくるような気がしました。

そこを踏まえると、タイトルにもなっている「ジャックが立てた家」が、どういう意味を持ってくるのか考えたくなります。何度か作りかけては、自分からそれを否定して作り直しています。最終的に、何を素材にして家を建てたか。

これは、監督の「みんながやっているように家を建てたって、それは自分の家ではない。誰に何を言われようと、私は自分の素材、自分のやり方で、家を建てるのだ」という、そんな宣言のようにも思えます(まあ、見た目はおぞましいものですが)。

そして、ラストの展開とエンディングに流れる曲。明らかに、監督らしくない流れのように思えます。ちょっと拍子抜け。つまり、「みなさんが望んでるのは、こんな展開ですか? それでいいのですか?」という監督からの問いかけのように感じたのでした。