映画「今夜、世界からこの恋が消えても」

【「感情記憶」というものがあるのかも】

51歳のおじさんが見るには、なかなかの精神的ハードルの高さですが、評判がよさそうなので「劇場にいるだけも何かしらの法律に抵触するのではないか」とビビりつつ鑑賞。

作品がつぎつぎと公開されている三木孝浩監督ですが、私は「夏への扉 ―キミのいる未来へ―」しか見てません。「夏への扉」も清原果耶目当てだったので、たぶん、私の食指が動かないタイプの映画を撮る人なのでしょう。

そして脚本は、「君の膵臓を食べたい」「響-HIBIKI-」の月川翔と、「明け方の若者たち」の松本花奈。三木監督とあわせてスタダ三人衆ですね。さらに、古川琴音、松本穂香と、信頼のおける俳優で脇を固めているところも、ちょっと期待していたところ。

真織は、高校に入ってすぐのGW初日に事故に遭い、それ以降の記憶が眠ると消えてしまう記憶障害(前向性健忘)となった。高校卒業後に回復の兆しが見えたが、過去の記憶が戻るわけではない。彼女のスケッチブックには見知らぬ少年の素描が何枚もあった。その少年は、かつて、同級生に命じられて真織に告白し、ある条件にお互いが同意し、嘘の交際をすることになった透だった。真織は記憶障害のことを彼に隠していたが、ある日、デート中にうたた寝をしてしまい…という物語。

思い出すのは、村上虹郎&早見あかりの「忘れないと誓った僕がいた」です。あちらは、翌日には、自分以外のみんなが、自分のことを忘れてしまうという設定なので、設定のぶっとび度はあちらの方が上。こちらは、ヒロイン1人の病気だけの話なので、リアリティは高めといえば、高め。

主役の2人は、ハマっていました。透役の道枝駿佑は、オラオラしたところも、グイグイいくこともなく、ただただ優しい。存在が優しい。真織のことは常に「日野」と呼び、手をつなぐのも真織から。きっちりと、ルールを守ろうとしています。だからこそ、花火のシーンは「あ、真織がそのセリフを言うということは、それに対すする返しはアレだよね、だよね、だよね、キタ―――!」という感じ。臭いといえば臭いセリフですが、それを言う資格が透にはあると思わせる説得力がありました。

福本莉子は、同じ東宝シンデレラ出身の浜辺美波を思い起こしますが、51歳のおじさんには、しゅっとしてきた頃の酒井法子に見えて仕方がなかったです。

それぞれアップが多用され、光の使い方なんかも、いかにもこの手の映画だなぁという感じですが、陳腐には見えなかったです。

そして、何と言っても真織の親友の泉役の古川琴音です。演技の上では主人公です。圧倒的です。ストーリーとしても、彼女の存在なしでは、この作品は成立しません。ただ、物語を成立させるためだけの存在になってしまっている気はします。彼女の人生にも何かいいことが1つあったうえでエンディングを迎えられるとよかったかなとは思います。

あと、気になったのは「真織は毎朝、絶望とともに目覚める」ということでしたが、それならば「恐怖とともに眠る」のではないでしょうか。朝起きて、自分が記憶障害であることを知り、1日を過ごし、その1日の記憶が眠ると消失するのですから、眠る前というのは、恐怖以外のなにものでもないはず。毎日死んで、毎日生まれ変わるようなものです。それは、日記を書くという行為で前向きなものに変換できるものでしょうか。「彼女は逃げない」と言っていましたが、そこに恐怖を感じないのであれば、とてつもない強さだということになります。

漢字を覚えたり、計算方法を記憶したりする「陳述記憶」がアタマの記憶、自転車の乗り方や泳ぎ方を記憶する「手続き記憶」が体の記憶とするならば、欲求や関心のような心の記憶というものがあってもいいのではないかと思いました。「感情記憶」とでも呼びましょうか。スケッチブックに残っていた素描を見て、「誰だろう? 知りたい」「彼のことをもっと描きたい」と思うのは、心の記憶が残っているのではないかと思ったのでした。

また、「日記を書く」「小説を書く」と「書く」という行為がキーになっています。記憶というのは、病気でなくても、どんどん忘れていってしまうものであり、それを補完するのが書くという行為。ただし、それは日記であっても、単に事実を記録したということではなく、それを書く自分というフィルターを通した何かを刻んだもののはず。透の姉・早苗は、母親の名前をペンネームにしているんですよね。ここにも、何かしらの思いがあるはず。

書くことと記憶というものを、もっと上手く絡めることができたような気がします。