映画「冬薔薇」

【正しくぶつからないと、どんどん擦れ違う】

埋め立て用の土砂の海運業を営む家庭に生まれた淳は、専門学校の授業にも出ず、不良仲間とつるんで、小遣いを稼いだり、親や女に金をせびって生きている。両親も、彼をどう扱っていいか分からない。ある日、不良仲間のリーダー格の妹が襲われるという事件が…という物語。

いやぁ、伊藤健太郎演じる淳のクズっぷりが徹底しています。自分勝手で思慮が浅く、うまくいかないことはすべて他者の責任。キレて相手を責める。基本的に相手の感情を考えることができない。できないから、相手が怒っても「なんで?」ときょとんとしている。そして、なんだかんだで逃げる。実生活で逃げた俳優が、逃げる男を演じる。意地悪なのか、優しいのか。

彼が拠り所にしている、半グレ集団も、非常に不安定。その道の人間にしてみたら、ただの末端。永山絢斗が演じるリーダー格の美崎も、強いカリスマ性があるわけではなく、みんなに信頼されているわけでもない。いつ崩壊してもおかしくない。淳の将来の姿の可能性の1つという感じで観ていました。

淳の将来の姿といえば、山梨から淳の母を頼ってくる叔父も。演じるのが真木蔵人ですから、役の中でも、まあ、昔はいろいろあったのだろうと勝手に想像します。その息子(淳の従兄)は、教師をやっていたが生徒に手を挙げたために、学校を辞めたという。叔父の「遊覧船がダメになって…」というのは付け足しで、引っ越してきたのは息子の理由の方が大きいのだろうな、と感じていたら、思いがけない展開に。

冒頭から、この家族には「人の命にかかわる何かがあった」ということは分かります。それが何であるのか、徐々に分かっていきます。淳が船に乗るとすぐに酔ってしまうのも、小さい頃のトラウマがあるのかな?と思ったりします。父親も淳のことを大切には思っているんですよね。大切に思っているから、強く出れないことは理解できます。ただ、その結果に対して、向き合おうとしない。父親は父親で、逃げているのです。

白杖のおじさんとの一件で、淳が心底ダメ人間ではないというギリギリのラインであることが分かるので、どこかでスイッチの切り替えができたはずなのです。

この父子を見ていると、「ああ、あそこで、ひと言が言えていたら…」と思うところが、そこかしこにあります。例えば、淳が訴えられたところで、父親が「お金は、こっちで少しずつ返すから、しばらくお前は船でタダ働きだ」のひと言が言えれば、全然違った未来になっていたことでしょう(ただ、いざ自分が当事者になったら、言える自信はありません)。

そんな中で、微笑ましいのが、船員たち。彼らも決して楽しい人生を送っているわけではありません。この業界自体が盛況とはいえず、後継者もいません。高齢者ばかりで運営しています。でも、自分が必要とされていて、働ける場所があって、仲間がいて、いつも文句を言いながら一緒に昼飯を食べて、愚痴も軽口も言い合える、そんな居場所があるということが、どれだけ救いになっていることか。ベテラン俳優たちがいい味を出しまくっています。もう。石橋蓮司にいたっては、チャーミングでさえあります。

主人公にも、その周囲にも、全体的に漂っている閉塞感、行き詰まり感。日本を覆っているものと言ってもいいのかもしれません。それが、季節で言うと「冬」なのでしょう。春の気配を感じられることのない冬。

タイトルを見た時には、そんな厳しい冬でも、赤く咲く薔薇をイメージしていましたが、むしろ開花することなく、棘だけはむき出しで手を添えることができない、そんな物語でした。