映画「犬王」

【どろろックフェス、室町ラプソディ】

室町時代。壇ノ浦で三種の神器の剣を探そうとして、その呪いによって父を失い、自らの視力も失った友魚は、都で琵琶法師の弟子となり、友一と名乗る。一方、猿楽能・比叡座の棟梁の息子の犬王は、異形ゆえ周囲から疎まれながらも、その体を活かして独自の歌舞を身につけていた。2人は意気投合し、友一は覚一座を離れ友有と名乗り、他に類を見ないパフォーマンスで、京の人々を魅了していくが…という話

仕事終わりに行ったので、ちょっと前半ウトウトしてしまいました。

実在した犬王という猿楽師が、観阿弥・世阿弥と並んで人気だったというのに、後の世にひとつも作品が残っていない。「なぜ、残っていないのか?」というところから、この物語の発想がスタートしたのでしょうね。

2人の出会いがいいじゃないですか。友一は盲目であるがゆえに、犬王の異形に惑わされることなく、彼の本質を見ることができる。最強タッグの誕生です。

犬王は、滅亡した平家所縁の者たちの語られなかった物語を作品にすることで、亡霊を成仏させ、それにより自分にかけられた呪いを解き、本来の人の姿を手に入れていきます。ここは、手塚治虫の「どろろ」を連想しますね。

失われていった者たちの物語を作品として語り、しかし、その作品は、また後世に残らず失われていった。この構造だけでも、「面白い!」となります。

彼らのパフォーマンスはバレエか、シルク・ド・ソレイユか、はたまたマイケル・ジャクソンかというところ。猿楽(能)も、もともとは、荘厳な演奏と舞を持ち味とする雅楽とは違って、曲芸や奇術なども含む散楽が起源とされていますので、こういう解釈は大いにありかと思います。

さらに、雅楽が宮廷の音楽であるのに対して、猿楽は庶民のもの。庶民のものだからこそ、権力の座にあるものが統制したくなるというのは、とても納得できます。

ただ、楽曲については、ループする感じがちょっと冗長に感じました。トリップ感を出したいということだと思います。でも、着席で普通に見ているだけなので、そこまでは乗り切れない。コロナ禍でなければ、スタンディング有り、声出し有りの応援上映できっと盛り上がったのでしょう。

ぶっとんだ楽曲の解釈の一方、人々の生活が非常に丁寧に描写されているのも印象的です。この日常があるからこそ、友有座のパフォーマンスが衝撃的に映えるんでしょうね。

ラストの展開では、犬王は、面で素顔を隠す必要がなくなったのに、本来の自分を封印してしまうことになるという点が、皮肉ですね。犬王と友一の思いのすれ違いが切ない。お互い犠牲を払ってでも守りたいものがあって、でも、それがすれ違うから、守りたいはずのものが守れなくて…、ああ、切ない。

もし、犬王の顔や体が昔のままだったら、彼は別の選択をしていたのだろうか?と、想像してしまいます。