映画「流浪の月」

【「常識」という光をあてられた側面しか見ることのできない月】

同棲中の彼氏との結婚の話が進んでいる更紗(広瀬すず)は、小学生の頃、誘拐事件の被害者になったことがある。ある日、偶然入ったカフェで、その事件の加害者で、当時大学生であった文(松阪桃李)らしき青年を見かける。世間から見れば、被害者と加害者の2人の間には、他者には理解できない深い心のつながりがあって…という話。

原作は未読で、予告を見た時にはストックホルム症候群のような話かと思っていましたが、ちょっと違いましたね。最後にタネ明かしはありますが、それを探るミステリーでもありませんし、恋愛映画でもないと思います。

タイトルの「流浪の月」。月は自分自身では光を放つことができません。太陽に照らされる角度次第で見え方が変わります。自分で自分をどう見せるかを決めることができません。作品中でも、いろいろな月、そして、いろいろな光の反射が映し出されます。「人は見たいようにしか見ない」というセリフもあります。文には「ロリコン、犯罪者」という光しか当てられません。更紗には「誘拐被害にあった可哀そうな子」「誘拐犯に洗脳された子」という光しか当てられません。それ以外の部分はずっと影です。そして、月が2つあっても、それぞれ光ることができません。そんな2人の境遇と関係性についての意味合いが、このタイトルにはあるのではないでしょうか。

更紗は、冒頭のタバコのシーンで、「あ、この子は、自分よりも相手にあわせてしまうタイプの子なんだな」ということが分かります。実際、彼氏である亮との関係性もそんな感じです。こういう形で、さりげなくキャラクターが語られるところがいいですね。

そして、更紗の行動は、相当危ういです。基本的に、よく考えずに動くタイプで「いや、そこは行っちゃダメだろ」の連続です。同情や心配を装った周りからの好奇や煽情の声などをシャットダウンしてきた結果かもしれません。いや、そもそも、小学生時代に文に着いていくのもダメなので、そういう人物なのでしょう。もちろん、ダメなのはわかっていて、それでもその方がマシかもしれないという判断をしたのだと思いますが、そこに合理性を求めてはいけないのでしょう。その点でも、ただ「可哀そうな子」ではありません。

一方、文は、自分を封印するタイプ。自分が本質的には小児性愛者ではないことは、文自身が一番分かっているはずなのに、あえてそこを否定せずに「もう、面倒くさいから、そういうことでいいや」という感じで諦めているところがあります。それによって傷つく人も出てくるのが、とても切ない。その方が、お互い傷が浅いと判断したのだろうでしょうけど、「本当に大切な人ならば、事件のことを話すよりも先に、そっちのことを話さないと!」と叫びたくなります。

だから、文の現在の恋人あゆみ(多部未華子)は、ひたすら可哀そう。でも、彼女の反応が、マジョリティの代表なんですよね。隠されていたことよりも、自分がこう反応するって決めつけられていたこと、つまり信頼されていなかったことの方がショックだったのかもしれません。実際、そういう反応をしてしまったわけですが。あそこで、文が本当のことを言ったら、どう反応したのか。そこまでの人だったのか、もう一歩踏み込んだ関係性を築くことができたのか、気になるところです。

そして、更紗の彼氏・亮は、一見デキるオトコ風なのですが、相手のことを尊重しない、支配タイプであることが、出てきてすぐに、言葉の節々からよく分かります。実は、あまり仕事ができないんじゃないかと思わせるシーンもあったのですが、どこからそう感じたのか、忘れてしまいました…。そこから、話が進んでいくと、どんどん荒んでいくのですが、ここの「どうかしている」度が徹底しているのが、よかったです。「そうなっちゃうことには同情するけど、そもそもお前も問題だよ」です。

さらに、更紗の子ども時代を演じる白鳥玉季が、ただただ凄いです。映画「ステップ」でも、とても存在感のある演技でした。表情や口調など、大人になった更紗、つまり広瀬すずに、ちゃんと重なるような演技なのです。当然、この2人が一緒になるシーンはないのですが、撮影中に一緒に時間を過ごしたり、お互いの演技を寄せていくようなコミュニケーションをとったりしたのでしょうか? これは裏側を見たくなりました。

あと、登場シーンはわずかですが、文の母親も印象的です。植木を引き抜く1シーンだけで、「この人は他者が生きることを軽く扱う人っぽい」と、どこか違和感を感じるようになっています。言葉じゃなくて、映像で語るシーンです。

マジョリティ側の私から見ると、おそらく、2人が幸せに過ごしていくためには、世の中に折り合いをつけることを選択するしかないのだろうと思います。つまり「もう、一生あわない」こと。本人たちもそれは理解しているだろうし、これまでそうしようと試みてきた。でも、アンティークショップの爺さんの言葉を借りれば「出会って、別れて、また出会う」かもしれない。実際、出会ってしまった。

最後の2人の選択は、正解かどうかは分かりません。何を選択しても、流浪することになるのでしょう。常識という呪縛、それを外れた存在を理解することの難しさが語られているのだと思います。

年齢差のある2人が、支配でも洗脳でもなく、そして恋愛でもない関係性を築くことはあっていいとは思います。しかし、この作品では、その背景に、身体の特性や育った環境などの前提条件がある上での、2人の関係です。それが、「常識」に抵抗する、1つの言い訳になってしまっているようにも感じます。そういう前提条件がまったくなくても、2人の関係性の物語が作れるようになったら、一歩進んだということなんでしょうね。