映画「死刑にいたる病」

【死刑にいたらない程度に広がる病も深刻だよね】

予告編を見て、気になっていた作品。「彼女がその名を知らない鳥たち」の白石和彌監督×阿部サダヲですから、期待です。

大学生・雅也のもとに、24人を殺害したとされる連続殺人犯・榛村大和から手紙が届く。雅也は中学生の頃、榛村のパン屋の常連で交流があった。拘置所に面会に行くと、榛村は「立件された9件のうち、最後の1件は自分はやっていない」という。榛村の依頼を受け、雅也が事件を調べ始めると…という物語。

冒頭、榛村の罪状の説明で「あれ? 被害者のうち1人だけ…」と気になったところが、そのまま榛村の冤罪の主張につながっていて、「警察や検察も、さすがに、その不一致には引っかかるんじゃないの?」という疑問。まあ「あれもこれも、コイツが…」となっても、不思議はないですけどね。

最初は、「なぜ榛村が、雅也に依頼したのか」という疑問を思い浮かべながら観ることになります。

この1件の嫌疑が晴れたとしても、彼の死刑は変わらないでしょう。そうなると、計画的に犯行を進める自分の犯罪歴の中に、異物が入ることが許せないという、彼なりの「美意識」みたいなものなのか。あるいは、雅也がこれを調べること自体が目的、つまりターゲットが雅也にあるのか。そんなことを考えながら観ていました。

雅也としても、この依頼を受ける必然性はないはずですが、どんどん調査にのめりこんでいきます。1つには、三流大学に進学して将来が見えない状態でくすぶっているところに、興味深いネタがやってきたというのもあるでしょう。あと、2つくらいありますが、そこは作品の中で語られるので、伏せておきましょう。

かなり早い段階で明らかにされますが、この榛村という男、通り魔的なシリアルキラーではありません。人の心に取り入って、操ることに長けているのです。「人たらし」というやつです。阿部サダヲのキャスティングが絶妙ですね。これが、絶世のイケメンだったら、魅力は増すかもしれませんが、一方で、警戒心も生まれそうです。阿部サダヲであれば、愛嬌があって、親近感を感じるのでしょう。彼の小洒落たファッションは、ピエロを連想させたりもします。愛嬌もあるが、裏もありそうな。

さらに、拘置所で面会するときの榛村は、目が印象的です。どこを見ているか分からない視線、すべてを吸い込むような真っ黒な目。観ている私たちも、時間をかけて、彼に操られているんじゃないかと思ってしまうぐらいです。絶対に近づいちゃいけないと思いつつ、どうなるのかは近くで見ていたいという絶妙なキャラクターです。

また、拘置所での面会のシーンは、アクリル板越しに写る榛村の姿を雅也に重ねることで、榛村の病理が雅也に感染する、つまり「写る」→「伝染る」という連想をしていました。

タイトルの「死刑にいたる病」の元ネタは、キルケゴールの「死に至る病」だと思われます。キルケゴールは「絶望は死に至る病」「絶望とは神の拒否であり、罪」と説きました。逆説的に「人が生きるためには、信仰が必要」ということでしょう。「信仰」とは、宗教的なものだけでなく、「自分が信じるもの」「大切にしていること」と言っていいかもしれません。

榛村は絶望していたのでしょうか? 確かに、彼の生い立ちは、絶望そのものだったかもしれません。そして、被害者たちに絶望を味あわせる喜びこそが、彼が信じるものだったのでしょう。裁判でも「必要だった」と言っています。さらに、雅也の父母、雅也につっかかるサラリーマン、大学の同級生など、他の登場人物も、自分を見失ってしまっています。榛村のような「症状」はありませんが、実は、多かれ少なかれ、広く浸透してしまっている病理ということかもしれません。そこにもゾッとします。

ただ、ラストの種明かしについては、それまでに匂わせ過ぎでしょう。明らかに不自然な言動が目立っていたので、「まぁ、そうだよね」という程度で終わってしまいました。