映画「猫は逃げた」

【男女の揉め事は、犬も食わないし、猫も跨いで通る】

週刊誌記者の広重と漫画家の亜子の夫婦は離婚を決めている。しかし、愛猫カンタをどちらが引き取るかで折り合いがつかず、話が進まない。すでに、広重には職場の後輩の真実子、亜子には編集者の松山くんという新しい恋人がいる。そんな頃、カンタの姿が消してしまい…、という4人と1匹によるドタバタの物語。

城定秀夫監督と今泉力哉監督によるコラボレーション企画「L/R15」のRサイド。今回は、城定秀夫の脚本を今泉力哉が監督します。

Lサイドの「愛なのに」の感想はこちら。

なんだか違和感があったのは、2人が離婚しなければいけない理由が、いまいちしっくりこないというところ。もちろん、夫が浮気を告白して、そこから亀裂が生じているわけですが、広重が本気で今の生活を捨てて真実子と結婚したいと考えているようには見えません。亜子の相手の松山くんもとてもいい奴ですが、正直亜子にとっては、浮気の腹いせ程度にしか見えません(この構図は、「愛なのに」と共通してますね)。

結局、広重も亜子も、しっくりこないことに気づいていたのではないでしょうか。ヒロはあからさまに未練タラタラで、でも、真実子とも切れないのが、ほんとにダメな奴です。一方で、亜子も、本気なら、まずはさっさと広重を追い出すはず。家庭内別居もせずに、普通に生活しています。2人一緒の生活に、そこまで嫌気がさしているようには見えないのです。

以前のような夫婦には戻れないかもしれないけれど、ちょっと形を変えたパートナーとして、やっていけるんじゃないかと思いながら観てました。

そして、カンタがいなくなったことで、2人は、初めてカンタと出会った、まだ恋人同士だった頃のことを思い出すことになります。それが「生理が来ない。もしかして…」というタイミングですから、「カンタを子どもに置き換えて考えてね」という作り手側のメッセージだと解釈しました(そう考えると、カンタがいなくなった原因をつくった人は、なかなかエグい人間ということになりますが、それはまた別の話)。

これまで子育ては母親任せだったのに、離婚が現実的になってきた途端、子どもとの関係性をつくろうとする父親だと考えると、結構、あるあるエピソードなのではないでしょうか。

簡単には答えは出せませんよね。割り切れるものではありません。良くも悪くも、これまでに積み重ねてきたものがあるのです。その積み重ねがハッキリとした形で出てしまうのが、足をつったアッコへの対応です。あれは、いいシーンでした。

なんだかんだあって、夫婦とそれぞれの浮気相手が一堂に会する場面があり、普通に考えれば、いわゆる「修羅場」なわけですが、ここが一番の笑いどころ。ひと言で攻守の形勢が逆転したり、どんどんツッコミが入れ替わったり、今泉監督らしい長回しでの会話の応酬。そもそも、なぜその順番で横並びになっているんだ? ネタバレになるので伏せますが、「●●×の上に×●●」は、本作一番のパンチライン。このセリフを言わせたいがために、このストーリーを作り上げたのではないかと思うぐらい。

劇中でクソ映画監督(オズワルド伊藤が、とてもいい)が、訳の分からない愛の哲学論を語っていますが、そこではほとんど語られなかった「フィリア(友愛)」こそ、倦怠期を乗り越えるカップルに必要なものなのかな、と思った次第です。

(余談ですが、普通に考えると「アガペー→エロース」ではなく、「エロース→アガペー」へと移行するものなんじゃない?)

一方、気になったのは、カンタの飼い方。今どき、去勢もせずに、首輪もつけずに、家に自由に出入りさせるような飼い方をするものでしょうか。もちろん、だからこそ、最後の展開になっていくわけですが、その展開につなげるためだけの不自然な設定のように思えました。まあ、本作で発情して問題を起こしているのは、人間の方なのですが。

それに関連すると、「愛なのに」は、「愛と性」が重要なポイントだったので、濡れ場にも意味がありました。本作は「愛のかたち」みたいなものがテーマだと思いますので、濡れ場はなくても、十分に成立する物語。逆に、「そういうシーンを挟み込んでおけば、どう作ってもいいんだよ」という、昔のピンク映画の作り方のパロディということなのかな、と思ったりしました。