映画「ちょっと思い出しただけ」

【恋愛の清算は否定ではなく、ちょっと思い出せるぐらいに】

2021年7月26日、照生は起床後のルーチンを済ませ、照明スタッフの仕事に向かう。タクシー運転手の葉は、乗客のトイレ休憩で自分もクルマを降り、フラっと建物の中を覗くと、そこには、撤収後にステージで一人踊る照生がいた。そんな日から、1年ずつ時間が遡り、6年間の7月26日を過ごす2人が描かれる…という物語。

まず、1年ごとに同じ日を遡っていくという構造を知らないと、最初はちょっと戸惑います。知ってても戸惑いました。なぜなら「この日は20〇〇年の7月26日ですよ」と教えてくれないから。あえてそうしているのでしょう。「マスクしてないよな」と気づいたり、部屋の様子が荒れていたり整っていたり、画面の様子から気づいていきます。まあ、3ターン目ぐらいになれば、だいたい分かります。

冒頭の2021年のシーンで、照生は照明スタッフの仕事をしつつ、ダンスもやっている人物であることが分かります。この時点では、「ダンサーを目指している」のか「過去ダンスをやっていた」のかは、分かりません。しかし、ステージに立つ身でもありながら、現在は、そのステージに立つキャストに照らす立場にあるということで、ここにドラマがありそうだと期待させます。しかも、名前が「照生」って…。

タクシー運転手も、演者か裏方かで言えば、裏方ですよね。いつもタクシーを使えるような境遇の人、あるいは、タクシーを使わなければいけない状況の人を、支える側。行く先を自分で決めるわけではありません。

さすがに、これはネタバレではないと思いますが、この2人は、かつて恋愛関係にありました。したがって、2人が出会い、恋に落ち、別れていく姿が、順序は逆ですが、描かれることになります。つまり、伏線が過去に回収されていくのです。「要らなくなったバレッタは、そういうことなのか」「腕を回す運動は、こういうことか」「ああ、この子とは、あんな感じの関係だったのか」「あの独特なバースデーケーキのデコレーションは、こういうことがあったからか」という具合に。

面白いのは、切り出されるのが7月26日に固定されているので、必ずしも、決定的なエピソードが描かれるわけではないというところ。7月26日の様子から、その前後にこんなことがあったのだろうと推測で埋めていくことになります。これはこれで楽しいものです。

明け方の若者たち」の2人については「不自然なぐらい自然な感じ」と書きましたが、この2人はもはや演技をしていないのではないかと思ってしまうぐらい。もちろん、演技はしているはずで、2人の演技力のなせる技ということでしょう。もう、芝居がうまいというより、2人の人としての魅力というか、池松壮亮の「池松壮亮」力と、伊藤沙莉の「伊藤沙莉」力に、圧倒されます。

特に、水族館のシーンが、とてもいいですね。葉は、行くとなったら、相手がどうであろうと、詰めていくタイプ。照生は、詰められたら、ひょいと引いちゃうタイプ。それが、イチャイチャになるときは、楽しくてしかたがない。でも、恋愛のバイオリズムが下がったときに、これが発動してしまうと、確実にすれ違ってしまう。

そして、照生は、ちゃんと自分で考えて、答えを出してから、葉に伝えたいタイプ。一方、葉は、悩んでいることは言葉で伝えて、一緒に答えを出したいタイプ。でも、葉も、いつも自分の思いを伝えているかというと、そうとも言い切れない。「いつも言いたいことを言う自分でありたい」と思っていて、なかなか出来ないタイプなのだと思います。あのまま結婚していたら、出産のタイミングなど、お互いの人生設計にアンマッチが起きていたはず。どちらが悪いということでもありません。

運命的な大恋愛というほどでもない。普通に出会って、普通に分かれていく。決して嫌いになったわけではなく、でも、「もう一緒には、いられない」と思ってしまうほど、かみ合わなくなってしまう。多くの恋愛の終わりって、こういうものなのかもしれません。

そんな恋愛でも、過去に戻れない以上は、本人にとっては2度と戻らない大切なもの。コロナ禍で、「もう、コロナ以前の世界には戻らない」と、みんなが感じているところですが、コロナがあろうがなかろうが、あの時には戻れないのです。それがコロナでハッキリと分かるようになった。

運命的な大恋愛からの大失恋ならビタ一文すっぱり清算して、すっからかんでリスタートするのもいい。でも、普通に出会って普通に失ったけど大切な恋愛なら、未練があるわけではないけれど、ちょっと思い出せるぐらいがちょうどいいのかもしれません。