映画「岬の兄妹」

 【清くなくても、正しくなくても、「生きる」ことは否定できない】


昨年見逃していた「岬の兄妹」と「火口のふたり」が、ちょうど池袋の新文芸坐でかかっていましたので、観てきました。

足に障害を持つ兄・良夫と、自閉症の妹・真理子の2人暮らし。造船所を解雇され、貧困のどん底まで落ちた兄は、妹に売春をさせることで食いつなごうとする…ということで、絶対、気分爽快な話ではないことは分かっています。でも、コメディなんです。

真理子が見ず知らずの男から渡されポケットに突っ込まれていた1万円と、ポケットティッシュのチラシ封入の内職の単価1円を対比的に見せることで、対価の落差を印象づけ、後に売春という行動につなげる。そのポケットティッシュの広告主が「KYタクシー」だから、兄妹のデリヘル業も「KYスタイル」なんですよね。良夫の何も考えてなさ加減が、よく分かります。

家内制デリヘル業が軌道にのってくると、マクドナルドに貪りつきながら、これまで窓にびっしりと貼り付けてあった段ボールを剥がして、刺すような日差しを浴びる。日陰に隠れてやるような仕事をさせることで、やっと、お天道様の下で人として生活できるという皮肉な描写ですね。

いじめっ子グループと良夫の挌闘は、衝撃的なお笑いシーンなのですが、これは文字にしても、伝わらないと思いますので、省略です。最低で最高。悲惨な状況なのに、良夫本人はなんだかノリノリになってしまうというのは、この映画の基本的なトーンですね。まあ、食べるものが食べられるようになったのだから、出るものも出るわな。

そして、誰もが100%心配していた事態に…。 劇中、真理子が大泣きする場面が2度あります。共通しているのは、自分が大切にしているものを強引に奪われたときです。1つはシゲルくんを壊されたとき(後に、ガムテで修復されているところが、優しくて笑えます)。もう1つのシーンは、ほのかな恋心を引き裂かれたようにも見えますし、あるいは、自分の「おしごと」を取り上げられたようにも見えます。たぶん、両方なのでしょう。

また、マリコの「おしごと」相手の1人、小人症の青年からの窓ガラス越しの「僕だったら結婚すると思ったの?」というセリフも鋭く突き刺さります。多様なハンディキャップを持つ人たちを、勝手に同じような人たちだと思い込んで、単純に「障害者」と一つにくくり、「お互い理解できるだろから、幸せになるだろう」なんて、あまりにも傲慢な考えですよね。これは、ヨシオに対する言葉というより、私たちに対する言葉です。

いよいよ切羽詰まった夜に良夫が見た夢、そして、その後の行動を考えると、彼は小さい頃から妹の保護者であることを強いられて、自分の子ども時代を犠牲にしてきたという思いもあるのでしょうね。引きずっているのは足だけではないということでしょう。 さらに、真理子が雀の亡骸で遊ぶシーンがありますが、その前に何があったかということを考えると、その自閉症ゆえの無邪気さが、あまりにも虚しく、しかし救いでもあるという、なんとも言えない気持ちになったりします。

この兄妹は、確かにド底辺の生活なのですが、一方で、ホームレスと食料を奪い合ったりして、もっと酷い状況の人たちがいることも描かれています。また、チラシを配る家々のポストが、みなボロいことボロいこと。ちょっとしたつまずきで、この兄妹のような立場に転落してしまう可能性もある、地方の崖っぷちの状況が見てとれます。決して特別な人の特別な物語ではありません。

そして、警察官の肇ちゃんには「お前、なんとかしてやれよ」と思ってしまいますが、彼こそが私たち「一般の人々」の写し鏡なんだと思います。境遇には同情するし、救いを求められれば拒否はしないけど、でも根本的な解決に向けて何か動くわけでは決してないのです。肇ちゃんに「なんとかしてやれよ」と無責任に思ってしまう私たちは、肇ちゃんと同じなのです。

ラストの展開は、冒頭のシーンのリピート。どう解釈するかは観客に委ねられていますが、これまでがコメディであっただけに、どうしても悲劇的な展開を想像してしまいます。つまり、電話をかけてきた相手は警察関係、そして、ヨシオが見ているものは幻影…。 でも、それさえも、「彼らが幸せになることはない」という、自分自身の偏見なのかもしれません。