映画「黒い司法 0%からの奇跡」

【黒人差別は背景だが、テーマではない。「義」を貫くことを訴える映画】

1980年代のアラバマで、物証もなく無実の罪を被せられた死刑囚マクミリアンを助けるために、同じく黒人である新人弁護士ブライアンが、無罪を勝ち取るべく奮闘する…という物語。

圧倒的に、正しい。

でも、「そのテーマだと、新奇性はないよな…」と思いながら、観てました。本作にも、何度かタイトルが出てきますが「アラバマ物語」の時代から、何も変わっていないからこそ、このような映画を作られなければならないわけで、「新奇性がないこと」そのものにも意味はあるってことかな…とも思いながら見ていました。

でも、ちょっと違うかもしれません。 この作品のメッセージは「黒人を差別するな」ではありません。黒人に限らず「人種差別はダメ」でもありません。

「公正であれ」

それが、本作のメッセージなのだと受け取りました。 つまり、「黒人への偏見から、黒人に罪を押しつけるのはダメ」ではなく、「人種に関わらず、罪のない人に罪を押しつけると、結局、真犯人は野に放たれたままなので、市民の安全は守れないけど、それでいいの?」と問いかけているのです。

原題の「Just Mercy」は、直訳すると「真の慈悲」みたいな日本語になると思うのですが、「just」には「justice」という言葉があるように、「正しい」「公正な」という意味もあります。

日本語で「慈悲」というと、「持つ者から持たざる者へ」「強き者から弱き者へ」といったニュアンスも感じますが、この「Just Mercy」は、日本語でいうと「義」ぐらいの意味なのではないでしょうか。

ブライアンが求めたものは、皆がそれぞれの立場で「義」を果たすことでした。1人は、自分の嘘で罪のない人間が死刑になるということを改めて捉え直し、過去の証言を否定しました。1人は、自分の職務は何に忠実であるべきなのかを考え抜き、結論を出しました。

一人ひとりが、自分の「義」を実行すれば、人種差別などしている場合ではないのです。そういうことを言いたかったのでしょう。

ただし、それは決して簡単なことではないことも、本作では語られています。ブライアンの働きかけにも関わらず、自分がなすべきことを誤って信じ続けた者もいました。そして、その者を多くの市民が支持し続けたこともエンディングで語られています。そして、それは、今も続ているということでしょう。

演出としては、囚人たちの食器を使ったコミュニケーションが印象的です。まったく異なる文脈で、2回同じようなシーンが出てきます。でも、共通するのは、いずれも「この刑務所を出る人間への、囚人たちからのメッセージ」というところ。ここは、最初のシーンがあるからこそ、2回目の食器カンカンが、ぐっとくるシーンになります。

各所で書かれているとは思いますが、邦題の「黒い司法 0%からの奇跡」は、どうしても引っ掛かります。前述のように、黒人差別がテーマではないとはいえ、背景であることは間違いありません。その作品のタイトルで「黒」をネガティブなイメージで使うことの違和感は否めません。原作の邦題も「黒い司法 死刑大国アメリカの冤罪」なので、やむを得ないことなのかもしれませんが、サブタイトルの「0%からの奇跡」にも違和感があります。

さて、主人公は「0%」だと思っていたのでしょうか? ずっと「道はある」と言っていませんでしたか? 確かに奇跡的な出来事かもしれませんが、本人は0%だとは思っていなかったからこそ、闘い続けていたのではないでしょうか。タイトルとしては、これもありきたりかもしれませんが、「真実への道」ならば、違和感はなかったと思います。