映画「わたしは光をにぎっている」

幼い頃に両親をなくし、田舎(たぶん長野)で民宿を営む祖母とともに育ってきた主人公・澪が、祖母の入院にともなって、東京の下町で銭湯を営む父の親友のもとで生活を始める、という物語。 

「実は、本当のお父さんは…」みたいな展開があるのかと想像しながら見ていましたが、大きなドラマ的展開があるわけではありません。

澪は、極端に無口でセリフが少なく、撮り方もクローズアップを使わず、ずっと引きの絵で見せていくため、最初は、まったくつかみどころがなく、見ているこちらもイライラしてしまいます。そんなだから、なかなか仕事もうまくいかず、おばあちゃんのひと言もあって、銭湯を手伝い始めます。

もちろん、スイッチが切り替わるように性格が変わるわけではないので、うまくいくことばかりではありませんが、少しずつ変化はしているようです。 印象的だったのが、すっぽん料理のシーンと、エチオピア人のパーティーのシーンの対比。片方は言葉は通じているのだが、まったくその話を理解することも共感することもできないという状況。もう一方は言葉は通じていないのに、なぜだか受け入れられてしまったという状況。また、本来は街に受け入れられているエチオピア人コミュニティに日本人である澪が受け入れられるという逆転の状況も面白いですね。いや、そもそも「受け入れられる」という表現もおかしいのかもしれません。「受け入れられなければ、いちゃいけないのか?」ってことです。すでにそこにいるという現実があるのですから。 

このあたりで、澪は「私はここにいて、できることをするのだ」という、小さな決意があったのだと思います。 そして、京介の銭湯も、町の大きな変化に巻き込まれていきます(実は、この街に最初にやってくるシーンで、そういう街特有の風景が、ちゃんと映し込まれているあたり、「上手いな」と思います)。澪は、その変化に対しても、「自分ができること」をちゃんとやろうとします。そこに、この作品のいろいろな要素が集まってくるところは、淡々と静かな映画ながらもなかなかドラマチックでした。

都会にいても田舎にいても、なかなか希望を見出せない時代。かすかな希望の光を映してくれる水面を手ですくい上げ、ぎゅっと握り、ぽろぽろと零れ落ちていくなかで、自分の手に残るもの。そんな映画だと感じました。

あと、光石研が、酔っぱらって公衆トイレで斜めになって用を足す姿が最高です。