映画「GULLY BOY/ガリーボーイ」

「GULLY BOY」というのは、「路地裏の少年」という意味だそうです。「それじゃあ、ラップじゃなくて浜田省吾じゃん」って思っちゃいますが、それはそれとして。

ラッパーとして成り上がる物語というと、どうしてもエミネムの「8mile」と重なるものがあります。ただ、「8mile」が最初からラッパーとしてのアイデンティティを持っていたのに対して、本作の主人公は、確かにヒップホップ好きではありますが、「自分が自分の言葉でラップをする」ということに目覚めるのは、作品の中の話です。そこが大きく違うところであり、特に「自分の言葉で」というのは、本作全体を通して重要なキーワードになっているように感じます。

最初、インドの文化や風習などについてほとんど知らない状態で見始めると、何が何やらよく分かりません。友人関係や家族関係も「あれ? あれがお母さんで、この人は誰?」みたいな。次第に「ああ、主人公はムスリムで、インドでは少数派ということか」とか「父ちゃん、愛人を家に連れ込んでいるのか。貧乏なのに」とか分かってきます。 

主人公ムラドは、そんな中でも、大学に行かせてもらっていたり、医学生の彼女がいたり、比較的恵まれた境遇にはあるようでした。でも、決して将来が見えているわけではない。父親が使用人をしているので、すぐそばには裕福な社会もあり、貧困や犯罪にまみれた自分たちの社会もあり、両方が見えるなかで、くすぶっているという感じでしょうか。

そこで、大学の学園祭のようなステージで、たまたま「自分の言葉でラップをすること」と出会ってしまうんですね。この出会いのシーンは、とにかくハッピーですよ。

もちろん、すべてが順調なわけではなく、彼はリリックの才能があっても、フリースタイルでのバトルが苦手。絶句してしまうという致命的な敗北を喫してしまう。もちろん、これもラストへ向かっての振りになっています。 

あと、女性陣ですね。インドの社会、またムスリムの社会で、彼女たちの生き方は制限されている。でも、その制限をものともしないのが、ムラドの彼女のソフィナです。医学生ですから能力はある。さらに、真っ直ぐで、ついつい手が出てしまうというデンジャラス・ガール。彼女にするにはどうかとは思ってしまいますが、彼女にとっては、ムラドがラップで成功していくことは、自分が自分のやりたいことを貫くことと重ねあわせて見ていたんでしょうね。

なんだかね、インドのことも、ラップのこともよく知らないのに、ラストはぼろぼろ泣いていましたよ。 

気になるのは、楽曲がちゃんとマスタリングした音源で流れるというところ。そういう音楽が流れるシーンがあってもいいのですが、やはりストリートラッパーの物語なのですから、生で歌うシーンは生歌の感じがあってもいいんじゃないかなと思いました。