映画「蜜蜂と遠雷」

原作未読。ピアノのことも音楽のこともちんぷんかんぷんの門外漢です。 

若手の登竜門のピアノコンテストの話ということで、「セッション」のような身を削るような格闘技的な戦いの物語か、あるいは「ブラックスワン」のような芸術に生きる者が背負う業みたいな物語を想像していたのですが、ずいぶん違っていました。ある意味、狂気を通り越した先にある清々しさのようなものがありました。

基本的には、コンテストの時間軸が流れていくだけなのですが、その中でも、各コンテスタントのキャラクターと背景が必要にして十分に語られています。

7年のブランクがあるワケありのかつての天才ピアノ少女の亜夜、無垢のようであり悪魔のようでもある自然児の塵、亜夜の幼馴染で「ジュリアード王子」の異名を持つマサルの3人の天才と、妻子もあり「生活者の音楽」を目指すサラリーマン兼ピアニストの明石。

3人の天才が、キン肉マンでいう「超人」ならば、明石はジェロニモのような存在。しかし、ジェロニモが戦う姿に正義超人たちが刺激されるように、天才ピアニストたちも明石の演奏に触発されるところが印象的でした。

そして、天才たちも、それぞれ競い合うというよりは、影響を与えあって、それぞれのアプローチで高みに到達しようとしているんですね。「この人に勝ちたい」という思いで演奏をしていては、音楽の神様としては「おいおい、どこを見ているんだよ?」ということになるのでしょう。

かつて亜夜がステージから逃げ出した理由は、単に緊張やプレッシャーといったものではないことが語られます。彼女は、ピアノを通して、母親との強い関係性を作っていたんですね。でも、その母親がいなくなったのですから、ピアノを演奏する意味がなくなってしまったのでしょう。その時点で時か止まってしまっているからこそ、まだあの水筒を使っているのかな、と思いました。

また、マサルも、最初は亜夜と先生の背中を追いかけるだけだったものが、自分が目指す世界が見えてきたこと、それをハッキリと表明できるようになったことで、次の次元に進んだのでしょうね。

ピアノを演奏するシーンが多いため、極端にセリフが少なく感じます。亜夜と明石との対話のシーンは、「そうなるのだろう」という予想はできる展開ですが、その演技は、予想を大きく超えてくるものでした。

ところで、ある人物から亜夜へのアドバイスとして語られる中で「必死すぎてちょっと苦手」という言葉があります。これは、亜夜を演じる松岡茉優本人に対する評として、時折語られる言葉のように思えます。原作にあるセリフなのかどうか分かりませんが、わざわざ入れたのだとしたら、面白いですね。この言葉で、彼女の何かの引き出しを開けたかったのかもしれません。

ふと「蜜蜂と遠雷」というタイトルの意味を考えてみると…。まず、父親が養蜂家ということなので、蜜蜂というのは風間のことなのかと思いつきますが、蜂はあまり単独では行動しません。蜜蜂はピアニストの面々と捉えることができそうです。蜜蜂が媒介して花粉を運び、受粉してやがて花を咲かせるように、彼ら彼女らが自然を媒介して音楽という花を咲かせる。そうなると、遠雷は、鬼籍に入って遠くから感じることしかできないくなったホフマン先生か。それは、ちょっとロマンティックが過ぎるかな?

あるいは、蜜蜂のささやきも、遠雷の咆哮も、ともにピアニストが対峙し、表現する世界の「音」。ピアニストは、そんなミクロの世界から地球規模の世界までを相手にしているんだというほどの意味かもしれないな、と思ったのでした。