映画「JOKER/ジョーカー」

本作の制作が発表されたとき、「自分は、最狂のヴィランの誕生秘話を知りたいのか?」という疑問がありました。いや、疑問というより不安ですね。もちろん、関心はあります。絶対、面白そうです。でも、「ああ、そりゃあ、そうなっちゃうよね」と理解してしまってよいのか、という躊躇でした。

結論から言うと「その不安さえ嘲笑うのがジョーカー」でした。


以下、ちょっとネタバレ的な要素もアリです。

ジョーカーといえば、映画「ダークナイト」で自分の生い立ちについて話すたびにころころ話が変わるというエピソードがあったように、そもそも、喋っている内容の真偽のほどは分かりません。「そんなことはどうでもいい」というのがジョーカーのスタンス。

本作でも、ずっと、重く、鬱々とした話が進んでいくなか、ある瞬間に、「え? 私たちが今まで見てきたものは、現実なのか妄想なのか分からないのか!」と、ひっくり返してくれます。多少、その境遇に共感するところもあったのですが、ここからは、今、流れているこのシーンは、現実なのか妄想なのか、もう探り探り観ていくことになります。

そう、確かにジョーカーは人々の負の感情を引き出すのが得意なのです。

最終的には、極端にいえば「すべてが妄想だった」ともとれるようなつくりになっています。ただ、私自身は、最初に観客席から呼ばれてテレビに映った話や、隣人との交流など、「彼の妄想はすべてポジティブなもの」という解釈をしています(1度しか見ていないので、精査はできていませんが)。

笑えない状況を生き抜くための一つの自己防衛手段としての妄想なのかな、と。 

コメディアンを目指す男が狂気に走る「キング・オブ・コメディ」の枠組みと、痩せ細った体躯に鏡との対話など「タクシードライバー」の演出、「人生は近くで見ると悲劇、遠くから見れば喜劇」というチャップリンの言葉などを借りながら、やっぱり「JOKER」映画になっているところが、凄いところです。 

ただ、ここで提示されている問題って、この後、バットマンが登場したところで、何も解決しないんですよね。

個人的には、続編はなくていいと思っています。なぜなら、「アーサーは、僕らがよく知っているジョーカーの正体ではない」という真相の可能性だってアリだと思うからです。

そして、本作を見ながら、私が思い浮かべていた作品は「天気の子」でした。 私は、「天気の子」の感想として、こんなことを書きました。

美しい映像と音楽で彩られていますが、現時点の世の中の常識や正しいことに対して反旗を翻す、なかなかのピカレスクロマンです。  

「銃」という印象的な小道具が共通しているということもありますが、帆高も陽菜も、そしてアーサーも「崖から落ちそうになる子ども」です。そして、アーサーは、社会福祉サービスの切捨てによって、ほぼほぼ「崖から落とされた子ども」へと追い詰められています。 

帆高は近くに陽菜がいたので、彼女を救うために暴走して、結果的には世界を敵に回すような事態になりましたが、アーサーには誰もいなかったので、狂気に走って、でも彼に賛同する者も多く現れたという違いが生まれたということなのでしょう。