映画「音楽」

まったくノーマークだったのですが、ちょくちょく評判を聞くのと、ちょっと時間ができたのと、新宿武蔵野館のサービスデーが重なったので、見てきました。

ヤンキー3人が、たまたまベースを1つ手に入れたことで、バンドを始めて、フェスにまで出てしまう…というお話ですが、ここで描かれているのは、定型を逸脱することの快感なのだと受けとりました。

バンドを始める3人ですが、なぜか、ベースが2人にドラムが1人。まあ、普通ならギター、ベース、ドラムなのでしょうが、「こんな音楽をやりたい」というものがない3人にとっては、そんなことは関係ありません。もちろん、メロディーだのリズムだのコードだのリリックだの、知ったこっちゃない(あ、リズムは一応あったか)。「バンドとは、こうやるもんだよ」という決まったレールを一切踏まずに、ただただ演奏することの気持ち良さだけで進み続けるのです。

後から知ったのですが、このアニメは、実写を撮影したものをトレースしてアニメを制作する「ロトスコープ」という手法が使われているそうですね。だから、演奏シーンなどは、ぐりぐり動きます。でも、日本のアニメは動きを簡略化し、それゆえに豊かな表現を工夫してきたリミテッド・アニメが主流です。そのことの楽しさは、現在NHKでアニメを放映している「映像研には手を出すな」でも描かれていますね。そう考えると、ロトスコープのような手法は、アニメとしての表現の幅を狭めてしまいかねません。

ただ、この「音楽」では、主人公である研二がとてもマイペースで、しばらく動かない、しゃべらないシーンがたくさんあったりして、「ロトスコープの動きぐりぐり」を前面に売りにしているわけでもありません。静と動のバランスがとてもいいのです。これも「アニメとはこういうもの」から逸脱することの快感と言えるのではないでしょうか。

作品の最初と最後を比較して、何かが変化するからこそ、物語としてのカタルシスが生まれるわけですが、そういう意味では、もっとも変化したのは、ヤンキー3人組ではなくて、バンド「古美術」の森田君です。

彼は、フォークソング部でバンドをやっていますが、音楽の趣味はフォークソングだけではなくて、とても広いということが、自室のライブラリーから分かります。研二に渡したCDは、キングクリムゾンですよね。たまたま学校にフォークソング部があったから入部したっていうだけなのかな、と推測しました。それが、研二たちのバンド「古武術」が演奏する音楽の、意味不明なエネルギーに触発されて…。これだけで、彼らの音楽には意味があったと言うことができます。

そして、彼らは、やたら歩きます。ヤンキーですが、バイクに乗ったりはしません。自転車にさえも乗りません。持たざる者の強さ、自由さみたいなものを感じることが出来ます。これもまた、大きなプロダクションの傘の下で、せっせと窮屈な作品を作るアニメーターたちに、個人制作でコツコツと作品を作り上げた監督からの、「こっちのほうが楽しくない?」という静かなメッセージのようにも感じました。

それにしても、このタイトル「音楽」は、あまりにも普通の言葉過ぎて、Web検索で情報を得るのが難しいですね。原作のタイトル「音楽と漫画」も踏まえて「音楽と映画」でも良かったかもしれません。